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《東北教区お寺の掲示板 法語ポスター》

 

 
 
 

平和とはなんだろうか 敵とともに生きられる そんな世界ではないのか

浅田 正作
 

 
 
 

《東北教区お寺の掲示板 法語ポスター》

 

 
 
 

平和とはなんだろうか
敵とともに生きられる
そんな世界ではないのか

浅田 正作  
 

 
 
 

平和とは何だろうかと考える時、私たちは漠然と、敵などいない、全ての人がいがみ合うことなく、仲良く暮らせる世界…といったことを想像するのではないだろうか。
 
 
しかし身近なところで考えてみても、周りの人に対して不満や不快に思うことが全くないことなど果たしてあるだろうか。もちろん感じ方は人それぞれなので、そういう人も中にはいるだろうが、ほとんどの人は、自分の考えとは合わない人が周りに少なからずいると感じているのではないか。
 

人間はいろんな人がいるわけで、それがむしろ自然なことだ。合う人、合わない人がいるというのは当たり前のことなのかもしれない。合わない人が居なくなればいいと考えることの方がむしろ無理がある。全部を一つにまとめようと考えることこそ不自然で、危険である。
 
 
その合わない者同士がお互いの存在を何とか認め合い、尊重していける世界を模索するのが平和への歩みとなるのだろう。自分の考えと合わない人を排除して、自分と考えの合う人だけを集めた世界が果たして本当に平和と言えるだろうか。
 
 
もしそんな世界があるとしても、そこにたどり着くまでに、敵対するものをすべて排除するという、平和とはかけ離れた修羅の道を歩まねばならなくなるだろう。

 
今や世界はアメリカをはじめとして、自国第一主義を掲げる国が増加している。協調性などどこ吹く風で、自分の国さえ良ければいいという考えに立ち、国同士が争い合っている。
 
 
かねてより紛争は世界のどこかで起こり続けているが、ますます世界は対立が深まるばかりだ。
 
 
敵を倒したあかつきに平和があるのではない。争いは争いを生むだけだ。決してそこに終わりはない。憎しみや恨みを増幅させるばかりで戦いは続いていく。
 
 
だからたとえ考えが合わない相手(敵)であっても、その人といかに共に生きていく歩みができるだろうかということを模索することが、本当の意味での平和ということになるのだろう。とても困難な課題だが、そこにしか平和はないのだ。